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『アベコベのリスク』~安倍政権の大罪~⑤

最悪の事態を想定していない日本のリーダー
―あの時のリーダーたちの右往左往―

◆もう少し日本のトップに腹が座っていたら!

3.11の直後、日本の政治リーダーたちは極めて不用意な発言や不用意な行動が多かった。もう少し胆力があれば、あの3.11の問題は、今のようなことには、なっていないのかもしれない。
非常時の時は、初動に全てがかかっていると言われる。
菅直人首相の不用意な言動は官邸の中だけではなく、あわててヘリコプターに乗って福島第一原発免震棟に入る。この時のやりとりがいくつかの本になって現れているが、かなり大きな声で怒鳴ったという報道もある。
原発事故がどのような形で、今のような形になったのか。少なくともチェルノブイリやスリーマイル島の原発事故について多少の知識を持っていたならば、つまり基本的な認識があれば、このようなことにはならなかっただろう。そのことを考えると「三度許すまじ原爆を」と誓った日本の国民として、悲しい思いがする。リーダーには、もう少し想像力と決断力が必要だったのではないだろうか。

◆日本のトップの決断に大問題!

あの当時の首相、菅直人についていくつかの点を指摘しておきたい。当時、福島第一原発にヘリコプターで飛んだ。そしてさらに、東京電力本社に怒鳴りこむということもあった。
地震当日から翌朝にかけては、原子炉の圧力容器の圧力が設計時の設定を大きく上回るなかで、圧力を下げるベントがなかなか行われず、ラチがあかないとき、「福島第一原発はどうなってるんだ」「誰が対応するんだ」「今はベントを行うかどうかの非常時なんだ」と首相官邸からの電話が、事故現場の福島第一原発に響いた。

12日午前、フクイチではどうだったのか。午前6時15分頃に官邸をヘリコプターで出発。午前7時台から8時台にかけて、小1時間ぐらい免震棟にて、吉田福島第一原子力発電所長は、菅首相への対応に追われた。職員たちも、首相が来るとなればいろいろ準備をしなければなかった。

そのとき、地震発生の翌日にさしかかろうとしたときから、一号機、次いで二号機の核燃料棒を収納している圧力容器の内部圧力が上昇しつづけ、圧力容器が壊れてしまう危険性がある切迫した状況のなかにあった。格納容器の冷却水が、全電源喪失のために循環しないことから熱せられて水蒸気となり膨張、圧力容器が圧迫されている。菅内閣、東京電力は、放射性物質を含んだ水蒸気を、外に排出して圧力を下げる格納容器ベントを決断。しかし、全電源を喪失していること、これまでも訓練さえ行ったことがなかったことから、ベントを行う方法についての実務能力が伴っていなかった。ベントはなかなか達成されない。午前五時台になって、発電所構内の放射線量が上昇し一号機の格納容器の圧力が幾分降下。ベントが実行されないなかで格納容器か、それにつながる配管が損傷したことが判明。しびれを切らした菅内閣は、午前6時50分に、一、二号機についてベント実施の経産大臣措置命令を発した。その後もベントは達成されないまま、重大な局面にさしかかっていたのだ。同時に取りあえず消防車を使って注水する真水はあったが、その後の冷却水の確保に海水を使うかどうかの検討が始まっていた。海水を使う場合、建屋の相次ぐ爆発で高い放射線を放つガレキのなかを太平洋までホースをつないで、海水を原子炉につながる配管につなげなければならない。この作業にも取り掛かっていた。非常に重要な時に、総理大臣がやってきて小一時間、その準備対応で原発の収束に全力を考えていた吉田所長以下、スタッフは一分一刻争っている非常事態で大切な時間を取られた。

当時、現地対策本部長だった池田元久経済産業副大臣(当時)がその後にまとめた手記では、福島第一原発に到着した菅首相は、出迎えた武藤栄東京電力副社長に対して、移動するバスのなかでベントについて話したが、「怒鳴り声ばかり聞こえ、話の内容はそばにいてもよく分からなかった」という。免震棟に入っても大声で怒鳴り付ける、何とも言えない呆れる構図である。池田現地対策本部長は、同行していた寺田学首相補佐官に、首相を落ち着かせるように頼んだという。菅直人議員は、以前から「イラ菅」とのあだ名があるほど、短期で癇癪持ちのところがあった。その部分がこの事故当時、菅議員が首相の重責にあるなかで、曖昧な情報の交錯が蓄積するなかで正確な情報把握、事態の検討に障害になってしまったのではないかとの指摘は大きい。

菅首相は、総理官邸に戻ってからも「吉田を出せ…」と何度も福島第一原発に、電話をしてきた。そのたびに対策の手を止めなければならない。

地震発生から4日後の15日には、圧力が高まったままの二号炉で、ベントができないままの状況下、内閣と東電とが事故対応を一本化するために事故対策統合連絡本部が設置された。その本部長に就いた菅首相が、東電本社に乗り込んだ。そのときもかなり長い間、怒鳴り声を上げたと言う。ある記者から、「大きな声がドアのこちら側にも聞こえてくる」と言うメールを当時もらったことがある。

2011年6月13日イタリアで原発の是非を問う国民投票が行われた。反対派がなんと90%以上という結果となった。

それからしばらくして、イタリア人の記者たちが総理官邸に招かれたという。そして菅直人首相と夕食をともにした。このあたりから菅直人の頭の中に“脱原発でノーベル平和賞”と言う錯覚と誤解が生まれたという。

軽すぎる、はしゃぎすぎる、イタリアの国民投票の大差の「原発No!」を知って、「日本でも…」という短絡さ。

◆何故、スピーディを公開しなかった。知っていた霞が関は福島へ行くことを躊躇した。

枝野幸男官房長官についても同じようなことが言える。「直ちに人体に影響が出るものではない」と。弁護士らしく十分な注意を払ってのコメントである。しかしチェルノブイリを含め甲状腺の異常は原発事故から5~6年経ってから現れるものである。それゆえに初期の活動が原発からどういう風に逃げるかということが重大な意味を持ってくる。
「SPEEDI」を公開することが、国民がどの方角に逃げるか、の最大唯一の材料ではなかったのか。のちに双葉町の皆さん達と話をした時に、「当時の町長以下は川内村から飯館村の方向に逃げた。」という。スピーディは、“その日、フクイチから北西のほうに巨大な放射性物質が流れる。”という映像になっていた。何も判断する材料がなく、福島第一原発から西へ北へと言われて多くの人々が避難をした。結果的に、そこに多大な放射性物質の広がりがあったということはその直後から、十分に予測されるところだった。

今日では、地震当日の11日午後、本来、原子力発電所事故の際に現地対策本部になるはずだった大熊町の緊急事態応急対策拠点施設(オフサイトセンター)が地震による損壊と停電で機能を停止しているなか、霞ヶ関・経済産業省別館三階にある原子力・保安院緊急時対応センター(ERC)が、スピーディによる放射性物質の広がり予測を使った避難区域案づくりを行っていたようだ。しかし、作成途中に首相官邸は、発電所から同心円状の避難指示を発表した。どうして双方の意思疎通がなされなかったのか不明だが、そこでERCは避難区域づくりをやめてしまったという(朝日新聞連載企画記事プロメテウスの罠)。

いろいろ辛い話になってしまったが、みんなが手を携えてこれからの日本をどうするかという時に自ら十分な対策を立てることができなかった日本政府の対応はあまりにも末期的であり、その責任は重大だ。同時にSPEEDIの情報を公開することが最優先だったのではないか。当時、自衛隊も配置されていた。バスの準備もあったことも事実である。いろいろなことを考えたら何とも言えない結果だった。

また、一号機が水素爆発を起こした12日夜には、福島県の職員はスピーディによる予測を行っていた公益法人原子力安全技術センターに電話をし、電子メールで画像を受け取っていたことが明らかになっている。しかし受け取られた画像は、それ以外の多数の電子メールのなかに埋もれ、いつの間にか削除されて、確認されることなく終わってしまったようだ(朝日新聞連載企画記事プロメテウスの罠)。

朝日新聞2013年10月24日に掲載された連載企画記事「プロメテウスの罠」を見てもらいたい。怒り心頭だ。事前につくられていた原子力発電所事故が発生した場合の緊急対応手順では、オフサイトセンターに数十人の医療班員が集まることになっていたという。しかし「(地震発生から17日後の)28日に福島入りし、医療班長となったのは医政局研究開発振興課長の椎葉茂樹だ。手配したのは大臣官房厚生科学課長の塚原太郎。塚原は『省内の調整がうまくいかず、派遣が遅れた』と話す。塚原の記憶では、3月14日から15日に現地対策本部から『厚労省が来ていない』と連絡があった。医療班長を務めるはずだった医政局指導課の幹部は、塚原の言葉では『計画停電の準備で忙しかった』。塚原はその人物が行けないと判断し、代わって椎葉を現地入りさせた―。」
言い訳になっていない。悲しく、恥ずかしい行動だ。国民の命と健康を守る立場にある人たちが、(自分)の保身を考えていたとしか考えようがない。

◆最悪の事態を想定して決定すること―トップの決断と責任の重さ―

スピーディは、あの日公表されなかった。すでに触れたように、情報を得た外国の人たちから真っ先に日本を出ていった。中国人、韓国人、アメリカ人、フランス人である事は、間違いがなかった。当時、仙台の市役所には「パスポートを持っている人たちは、是非届け出てください。東京への車を用意してあります」という張り紙があったと、仙台のタクシーの運転手さんは、悲しそうに私に話をしてくれた。後に分かるが、日本人は何も知らされなかった。外国の政府及び原子力関係の機関は、全てスピーディを見ていた。知らなかったのは日本人だけなのか。もちろん、何人か何百人かの日本人は知っていた。しかし、福島の原発事故がかなり大きなものであるということで、原発から20キロ30キロ離れて避難してくださいと言った場合、「右往左往し交通事故が起きて大混乱が起こる」と判断したのか、日本政府はこのスピーディの映像を公開することはなかった。

少なくとも福島第一原発周辺の人たちが、逃げるのは西の方向しかない。それが西の北なのか、西の南なのか、道は何本かしかない。しかし、地域住民はみんな、共同体の中で暮らしている仲間である。そのことを考えれば、多少の混乱が起きてもやはり放射能から逃れることこのことが最優先だったのではないだろうか。助け合いの精神は皆さん持っている。

現場での混乱の中で「1人でも多くの町民を双葉町や大熊町から遠くへ逃すことだけが頭の中にあった」と当時の自衛隊の関係者、あるいは双葉町の役場の人が語る。大混乱はある程度しょうがない。それでも、一刻も早く福島原発から放射能の下を潜って逃げるということが、このような原発事故においては最優先されるべきだろう。そのことが当時の政府、民主党菅直人政権にはなかったのだろうか。

◆安倍総理大臣も大きな勘違い

とにかくアベコベが多すぎると触れてきた。やってきたこと、なすことが全て順番が逆。
東京オリンピックより汚染水対策が、2013年の秋に最優先されるべきではなかったのか。8月末の300トンの汚染水で、東京オリンピックは簡単に招致できるような状況ではなかったのではないか。しかしこのことについては、ノーコントロールだったら、世界に向けて「0.3ヘクタールの港湾内で完全ブロック」と答えて、「東京は安全です」と言う発言の責任は万死に値する。すでに触れたように、0.3ヘクタールがどの場所かも分かっていないという状況で、よくもしゃあしゃあと自信を持って「東京は安全です」と答えられたものである、この神経は疑わざるを得ない。

フクイチは海水を原子炉に掛ける、ということで汚染水を海へも多く流していることは事実である。現時点で、原子炉そのものも完全にコントロールされている状況では無い。軽水炉というように水で冷やし続けなければならない。その結果毎時17トン、24時間なので1日に約400トン以上の汚染水が発生する。それを一応流れ出ないようにタンクに詰め込んでおく。結果1000基の汚染水タンクが林立をしているという状態になり、さらにこれを大熊町の山の方へ何百、何千と作っていかなければならないという。

それに加えて、地下水約300トンが、原発の下を通りすぎる。汚染水と混じって当然放射能がそこに加わり、海へも多く漏れていると言われている。総合的に考えてフクイチは“コントロールされていない”というのは、東電の内部でもごく常識的な判断であり、上田フェローの発言だけでは無い。原子炉から50㎞離れていても、決して安全ではないかもしれない。しかし、双葉町や大熊町や富岡町の人たちが、県外に避難をしたとしても、現実に福島第一原発自体の問題は簡単に収まるものではないし、食べるものによる内部被曝の問題も気掛かりで重要なことでもある。

◆小泉元総理大臣が原発ストップを発言した

2013年8月26日の毎日新聞紙面の「風知草」という政治コラムの中で、小泉純一郎元総理大臣がフィンランドのオンカロ(これは洞窟と言うフィンランド語)の中の地下400メートルのところに核のゴミを捨てているという、NHKのドキュメンタリー「地下深く1000000年」という番組を見て、このオンカロを2013年8月、関係者何人かと訪問し現場を見てきたという。その後の発言であり、もう原発はいらないのではないかという趣旨の発言を繰り返してきた。東電の賠償金はすでに3兆8000億円になり、最終的には10兆円をはるかに超すのではないかという試算も出ている。そのことを考えれば原子力発電所によって生み出される電気料金は石炭、石油、LPGガスと比べてもはるかに割高になっていく。少なくとも小泉元総理が指摘するように原発の設置等々で国が使ったお金を考え合わせれば、それほどの金額でもない。「過ちを改めることにはばかるなかれ」という諺は古くから使われる。もちろん中国古典の言葉でもある。

小泉元総理は9月24日、六本木ヒルズの講演の中でも原発ゼロ発言をした。「今年はもう原発54機はみんな止まっているんです」という説明もしたという。そしてこの講演の最後に、小泉総理大臣は尾崎行雄、すなわち尾崎咢堂の94歳の時の言葉を引用した。この言葉は国会の脇にある憲政記念館の入り口に碑として建っている。「人生の本舞台は常に将来にあり」という言葉である。私も尾崎行雄の三女、相馬雪香先生のご指導をいただいてボランティア活動を始めた人間である。何度も相馬雪香さんに「これが父の言葉なんですよ、福岡さん、いま頑張っていても60になっても70になっても自分たちの本舞台は常に将来にあるというこの父の言葉を大切にしなさい」と言われたことを思い出す。

◆1995年1月17日、臨時閣議での村山富市総理大臣の発言
―リーダーとしての決断と責任―

1995年1月17日、朝6時少し前、阪神淡路で大きな地震が発生した。マグニチュードは8弱と言われた大地震である。東京でもかなりの揺れを感じた。当時、関西地区の友人は地震で目が覚めたというよりも「倒れてきたタンスの下敷きになって目が覚めた」と、後に私に語ってくれた。

知人の運転手さんは、ちょうど高速を走っていてハンドルが制御不能の状態になったと語っていた。慌てて下道に降りたら「高速道路がずり落ちていた」と言う。総理秘書官である外務省の古田肇秘書官は、6時半過ぎに村山総理から電話をもらった。「今日、月曜日だが臨時閣議を開く。10時に来れない方も居るだろうけれどもとにかく全員に連絡し、今後の対応について閣議を開く、それを連絡してくれ!」こういう話で電話は切れた。

古田秘書官はすぐに何人かの秘書官に連絡をし、全閣僚に連絡を取った。7時少し過ぎには連絡は終わっていた。もちろん新幹線も動いていない、来れない人もいる。政治家は金帰火来である。金曜日に故郷に戻り、日曜日の夜に上京してくる。それ故、定例閣議は火曜日と言う風に決まっている。しかし10時、1人の大臣を除いて総理官邸にほとんどの大臣が集合した。10時00分閣議が始まった。村山総理大臣が立ち上がって約3分、「今朝の阪神淡路の大地震について、9時のNHKニュースでは死者数名という報告であったが、すでに警察や各方面からの情報によると犠牲者は2000人を超える状態であり、さらに増える模様である。さらに神戸阪神地区においては、火事が発生し映像からみればビルの多くは崩壊をしている。けが人が閉じ込められ、そしてまた救急車、警察の車が動かない状況であり、難航を極めている。私はこの事態に対して一国の総理大臣としてどう対応するかの『答え』を持っていない。
今一刻も早く各大臣は各省庁に戻り、すべての職員、行政組織をフル活動して現地の人々の人命救助に当たってもらいたい。すべての費用は国が、そしていかなる対応があっても、すべての責任は私が総理大臣として取ります。直ちに各省庁に戻り行動を開始していただきたい。」ほんの2~3分の話であった、各大臣は、各省庁へバタバタと帰る。

亀井静香は当時、運輸大臣であった。携帯電話で幹部を集めることを指令する。さらにトラック協会の族議員でもあり、各会社のリーダーたちに電話で伝え「トラックに水、毛布を、食べるものを、ありとあらゆるものを積んで神戸向かってもらいたい。費用責任は全て亀井静香が取る」と。これも族議員の強さでもある。

野中広務は当時、自治大臣だった。この日の午後、加藤紘一自由民主党幹事長を呼び出した。「向こう2~3年、特別交付税や補助金は全て阪神淡路の皆さんの復興の費用として使う。各派閥の領袖に了解をとってもらいたい。いまは非常時である」と告げた。自由民主党は派閥の集合体であり。加藤紘一もポスト村山のポジションにいる人間である。このようなことが1995年1月17の午前10時から2~3時間で行われた。人員の配置そして資金の手当て、さまざまのことを含めて村山富市は責任を取る決断を下し、そして行政組織が動き出した。

◆もし村山総理大臣が、3・11の総理大臣だったら…

私は大分県で何回か3・11の後、村山さんに会った。この当時の話も聞いた。おそらく私の推察だが3・11の時、村山さんが総理大臣なら、全ての大臣、組織を動員しスピーディも公開をし、その対応に当たったのではないか。少なくとも福島の現場に行くかどうかは別にして、福島第一原発の吉田所長にすべてを託し、そしてスピーディの映像を見て、原発近くの人たちの救助避難活動に全力を投じただろう。各自治体がどのような形で動くかという事は、やはり国のトップの判断に従って行動するしかないし、スピーディを公開するということは最低限の責務であったと思う。山へ逃げる事を本当に考えていたのかどうか、東へ逃げることもできない福島県の原発周辺では、車でどういう形で逃げるのか。いろんなことを考えながら、根拠のない何らかの決断と選択を迫られたのではないかというふうに思う。

あくまでも仮説の領域であり想定の範囲内でしかないが、私は村山富市総理大臣だったら即判断し行動したと思う。地震後の大津波については、神戸の大震災の時と同じように全力を挙げて人命救助と支援体制を作り上げたと考える。そして秘書官や官房長官に人命を最大第一優先として、福島原発対策の本部を設定したと思う。

経済産業省の原子力安全委員会や各関連機関に対し、原発についてのすべての研究者に連絡を取り、東京に集まってもらいホテルを借り切ってでもその対策を考える。

そして官邸と東京電力とのホットライン「テレビ会議」を含めて、フクイチと東電と総理官邸を今回のように連絡網でつなぐ。全国の各研究機関、大学の専門家には正式に参加してもらい、東京のホテル、あるいは福島の現場に行く覚悟を持っている人には行ってもらう。そしてもちろん福島市、郡山市の現地に対策本部を作る。連係プレーをきちんと取り合うということを考え、意見をすべて1つに集約をしていくということも考える。

福島原発の現地においても、国会議員や各団体の人の連絡網を密に取る。さらに地震対策、津波対策、人命救助、救援物資の配布等々、総合的に判断し、福島第一原発の収束の方向に向けて、全力で行動する。米軍や海外の各機関については、全面的な協力を要請する。

◆非常時の決断はマイナス100点よりマイナス50点をとる!

非常時において初期の対応は極めて大きい。トップは現状を把握して、行動を即断即決で決めなければならない。非常時において100点満点の正解は無い。マイナス100点よりも、マイナス50点という選択を考えなければなない。そう考えてみると菅総理大臣の3・11直後、及びその後の行動は万死に値するものだと思う。

村山元首相と大分で時々お会いすることがある。私のゼミ生も、先生の事務所に勤めたこともある。

1996年1月村山総理は伊勢神宮に参拝した後、記者会見をした。そして総辞職の決意のあることを示した。東京に戻って、橋本大蔵大臣が村山総理の後を継ぐということになった。

2年前に大分でお会いすることがあった。私は「村山さん、責任を取られたのですね」とこのことについて聞くと、村山さんは焼酎を傾けながら「まぁ、そういうことだな。福岡さん1年経って復興の動きも見えてきたからね。強力な自民党主体の自社さ政権で関西、阪神淡路の皆さんの復興が加速されればいいと思ってね」と、出所進退の潔さであり、鮮やかさである。リーダーたるものは決断をし、そしてその後きちんと責任を取ることが大切だということを、村山富市元総理とお会いをしてしみじみと感じた。それに比べて、菅首相の3・11の対応、そして、東京オリンピック招致のための安倍首相の「安全宣言」の無責任さ。言葉が軽い。

◆陸前高田市の仮設保育園で

2011年の夏前に陸前高田の保育園で学生たちとボランティア活動を行った。戸羽陸前高田市長も同行してくれた。

海の近くにあった保育園で、山の方へ逃げてきた。古くなって使われなくなった保育園をお借りしての陸前高田市市立保育園である。地震が発生し、津波が起きたのは午後の3時過ぎであった。お昼も終わり、保育園を去って自宅に戻った子どもたちが何人もいる。その子どもたちが犠牲になった。子どもたちがゼミ生と遊んでいる脇で、私は市長と保育園の先生と立ち話をした。「先生、綱引きの綱も玉入れの玉も、みんな流れちゃって、運動会もできる状態では無いのです…」保育の先生が悲しそうに片づけをしながら私に話す。
市長が私をちらっと見る。「先生はお節介だからね」と思っている弟子の1人だ。私は「運動会は9月ですか?10月ですか?」と聞き返した。「そうです10月です」と言う保育の先生の返事。
「なんとかしましょう。お約束は出来ないが、どこかで貰うか買えるなら!」と、いつもの得意の安請け合いである。副ゼミ長の男子学生が後ろからコツコツと肩を叩くが、「お前手配しろ」と教師は楽である。

教え子が保育園の関係者に多い。彼らは綱引きの綱と玉入れの玉を用意しなければならない。夏前であった。いろいろ友人に打診をして、なんとか間に合った。

運動会の当日、私は仕事で行くことができなかったが、ゼミ生たちがお手伝いに行った。携帯に電話がかかってきた。ゼミ長からの電話「先生、子どもたちは元気いっぱいで大歓声です」電話の向こうで子どもたちの歓声が聞こえる。「楽しんでいます。良かったです」と言う。思わずその風景を想像してみた。涙が出そうになった。子どもたちの笑顔が遠くに、見えてくるような気がした。よかった。子どもたちの笑顔はみんなを元気にするビタミンG(元気)だと教わった。

◆“あの日の責任”を取った保育の先生のツメのアカでも…!

その翌年の2012年春、この保育園に行ってみた。園長先生がいた。市立の保育園でもある。「この3月で保育園やめます。まだ退職には2年ほどあるのですが、ひとつの区切りだと思って…」と寂しそうに話された。何人かの子供たちが亡くなった事を自分の心の傷として受け止めているのかと私は考えた。「これからもよろしくお願いします。先生たちが来ると子供たち、保育の先生も元気になります。何度も来てくれる人がいるのはとっても嬉しいです」と声を詰まらせる。

陸前高田の仮設の市役所へ行った。市長にこの話をしたら、「想像はしてたんですが、ひとつの区切りなので、という気持ちが強いので残念ですが、彼女は辞めることになったということです」という話を聞いた。こんな園長さんも日本にはいる。出所進退とはどういうことかを十分に体現されている。それにしても、いまの日本の政治家には自分の責任の取り方と覚悟を持った者がいない、ということをしみじみ感じた。

少なくとも3・11の後は自己保身の中で行動した人たちが多すぎた。「地震があったので有名になりました」と言う脳天気でアホな知事も東北にはいた。そして2013年の夏になってこの退職した園長さんが「亡くなった子どもたちの親御さんみんなに会ってお線香を全て上げることができました。ほっとした」と市長のところに挨拶に来た、という連絡があった。東北の現状はどうであれ、とにかく良かったと思う。

◆最悪の事態を想定しての判断の大切さ!―南三陸戸倉の人たちとの出会い―

2011年5月、登米市の公民館に何百人と言う人たちが避難していた。南三陸の戸倉の人たちが中心だった。一時期は300人を超えていたというが、明らかにこの公民館では狭すぎる。次第に避難者の数は減っていったが、それでも不自由な生活は続いていた。ボランティア活動でのこの人たちとの出会いの中で、多くの人との心の触れ合いをいまでも持ち続けている。学生たちは多くのことを被災者の皆さんから学んで、卒業していった。

この公民館に避難していた阿部区長さんを中心に約30世帯120人くらいの人々が、登米市の学校裏に仮設住宅を作り、そこにまとまって住めるようになった。

阿部区長が地震当日に裏山にのぼって撮影をしたビデオを何回か見せてもらった。自分が暮らしていた家が津波で流され、それを裏山に登って撮り続けていた。しかし「危ないと思ってその裏山のさらに上にある神社に避難した」と、彼は寂しそうに語った。この裏山からさらに身の危険を感じて登った、神社には多くの住民が映っていた。その中には、戸倉小学校の子供たちもいた。その日の夜は寒い夜だった。雪も降ってきた。夜が明けてみんなは登米市まで歩き続けた。そしてこの公民館にたどり着いたと言う。食べるものもない。南三陸の戸倉は魚が豊富だった。登米はその名前のように、お米が大変有名な宮城県の市でもある。もちろん山地にあり、津波の被害はなかった。

2013年の夏、中尾ミエさんが同行してくれてこの阿部区長さんの話をまた聞いた。仮設のおばさんたちが20~30人集まってくれた。中尾ミエさんと写真を撮りサインをしてもらっていた。30~40分も学生たちは仮設の集会場から出てこない、また阿部区長さんが当時のビデオを説明しながらいろいろな話をしている。
みんなが出てきた、挨拶をして戻った。仮設のおじさんが学生に「今年の暮も餅つきやろうや」と声をかけている。「はい」と学生は返事をしていた。ミエさんは「新潟からもち米を持ってこさせますよ!」と相槌を打っていた。阿部区長「先生、あの細い杵じゃだめだよ」と私に向かって言う。学生たちは「太いのも用意しました!」と返事をする、楽しげな会話が続く。

歩きながら阿部区長は、3・11の2日前の3月9日にも大きな余震があった、と話をしてくれた。東北福祉大の学生たちは一緒に歩きながらうなずいていた。その時、戸倉小学校の避難担当の先生が、3階屋上への地震津波の時の想定場所を確認したが、「もしかしたらとんでもない津波が来るということもあるかもしれない」と考え、「あの裏山の神社に変えたんですよ」と阿部区長は話をしてくれた。

最悪の事態を想定したこの判断は正しかった。みんな裏山の神社まで逃げていれば犠牲者は少なかった。貞観地震は869年である。当時の津波はやはりこの裏山の手前まで来たという。戸倉小学校の3階ではせいぜい10メートル。津波は15~17メートルに達していた。そのことを考えれば、この2日前の判断は正しかったと言える。

完璧な防災はできない。しかし時間との勝負であり、より高くより遠くが津波から逃れる最大の方法であると南三陸の人たちは言う。1人でも多くの人が助かる方法が良い方法である。防災はできないが減災はできる。正解はないが、80点、70点の正解も大震災や大津波の時は考えなければならない。今回の地震では、この1人の先生のひらめきが子供たちの命を守った。
「準備する心」、「予見力」こそが生きるうえで大切なことだと思った。

◆大川小学校(石巻市)の校庭に立って思ったこと
―亡くなった君たちにただ涙するゼミ生。この悲しみを乗り越えて、そして再びこのようなことが起きないように!―

何人かの上級生が山へ向かって走ったと言う。「普段から遊んでるから大丈夫」の声も聞こえた。しかし、先生に連れ戻された。大きな揺れに見舞われた地震直後、それから50分ほどの間、生徒たちは校庭に集められたまま、どう行動するかの話し合いが、教師の間で続いた。事前に用意された避難計画では、大川小学校自体が避難場所とされていた。宮城県も石巻市も、1933年に発生したマグニチュード8.1の三陸沖大地震でも津波が到達しなかったことから、大川小学校付近では津波被害はないと考えていたのだ。しかし、教師たちはあまりに大きな揺れのなかで、避難の必要性について意見が割れた。校庭の中を抜けて裏山に逃げるか。あるいは二階建てが屋上のない校舎の屋根にのぼるか。いくつかの案が検討されたと言う。時間は瞬く間に過ぎていった。非常時は、冷静に判断した後ですばやく行動することが鉄則でもある。

地震があって津波が到達するには、震源地の位置にもよるが、通常、15分から分程度の時間だという。今回の地震では、最新の分析で、震源地海底でのプレート境界の二段階の地殻変動が起きたことから、2つの津波が重なり合って高さが高くなったことが明らかになってきた。さらに地震が複数箇所で連続して発生したことから、その津波がさらに重なり合うことで巨大化したというのだ(NHKスペシャル巨大地震Ⅱ「津波はどこまで巨大化するのか」)。

大川小学校は、入り江の奥に約4キロ入ったところにあり、外海から遠く離れていた。少しの時間的な余裕はあるが、当日、避難決定の所要時間は50分を超えていた。時間がかかりすぎたと言わざるを得ない。残念であり、悲しい結果となった。

避難経路は、校庭からそのまま草木を分け入って裏山に登るものではなく、公道に出て200メートルほどの河川敷近く新北上大橋のたもとの小高い所と決まった。一部の親は、車で迎えに来て、子どもを連れ帰っていた。全校生徒108人のうち、残された80人程度が列をつくって歩き始めたとき、校舎西側にある新北上大橋と4キロ先に海がある東側から高さ10メートルを越す山のような津波が押し寄せてきたと言う。生徒たちは列を崩して、てんでんバラバラに逃げ出したが、時すでに遅く、瞬く間に押し寄せる海水のなかに巻き込まれていった。小学生死774人、行方不明4人。教師9人死亡、行方不明1人。
津波に巻き込まれた小学生、教師のうち小学生4人、教師1人が辛うじて生還した。

ゼミ生を3回、現場の大川小学校へ連れて行った。白鷗大学、東北福祉大学、立命館大学のゼミ生、そしてゼミ卒業生のOBたち。
「もし君達がこの場にいて、小学校の先生だったらどうする。教師と思って判断をしてみろ!」と私は学生に問いかけた。
2~3分沈黙の後、多くの学生は裏山へ走って逃げると言う事を主張した。
体力のない太ったゼミ生も「山形出身ですから、山へ逃げます、小さいころから遊んでいたから。」と答えた。「ダメもとでやりましょう」と副ゼミ長が手を挙げる。

全員は無理かもしれない。1・2年生の女の子、体力のない低学年は上級生が連れて登るという案も出た。1・2年生は5・6年生が先生と一緒に引っ張る。4年生は先頭を切る。3年生と2年生と1年生と体力のない子に5年・6年・教員職員がつくと学生は言う。

2~3分の時間で、瞬間で、これだけ冷静なことを考えるということは非常時ではできないと思うが、学生たちの何回かの経験での答えである。もちろん正解は無い。冷静に考え、何らかの決断をし、行動をするということがこのような状況においては最優先されるべきであろう。正しいと思われる決断、最善と考えた方法を決断したら、後は行動を起こすしかない。全員を助けるのか、1人でも多く助けるのか。当時の先生方は心の中で相当の葛藤があると大川小学校の校庭で思った。ただ今は手を合わせることしかできない。

※次章更新までしばらくお待ちください。
※当文章の一部あるいは全部をそのままあるいは改変して転用または掲載することを一切禁じます。

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福岡政行最新著書

福島第一原発は、あの日から5年経った今でも、アンダーコントロールではありません。原発事故は収束していません。安部総理のオリンピック誘致のための発言も、野田総理の原発収束発言も許されないものです。そ...

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